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嘉納治五郎師範 「精力善用」柔道の創始者である嘉納治五郎師範が岡山に来られた際に初代館長福間豊がお願いして書いていただいた大変貴重な直筆の書です。 帰一斎とは、嘉納師範が70代で使っていた雅号です。 【精力善用】 「精力善用」は、「自他共栄」と共に嘉納治五郎が創始した講道館柔道の指針として掲げられている言葉です。 柔道は、相手の動きや体重移動を利用し、自分の持つ力を有効に働かせるという原理によって、より大きな力を生むことができます。そして、柔道に打ち込み、修行を積むことによって、自己の能力は磨かれていきます。それは日々の生活にも同様のことが言えます。 「精力善用」とは、その力を使って相手をねじ伏せたり、威圧したりすることに使わず、世の中の役に立つことのために能力を使いなさいということを表しています。 (ホームメイト「柔道チャンネル」より転載) | 永岡秀一十段 「至誠」永岡 秀一(ながおか ひでいち/1876年・明治9年 - 1952年・昭和27年) 岡山県岡山市出身。「天才永岡」と呼ばれ講道館柔道草創期を代表する柔道家で、段の最高位である十段を授与されており、講道館柔道殿堂にも顕彰されています。 初代館長福間豊は永岡十段から直接指導を受け、目をかけられていました。永岡十段が講道館で技を披露する際に「岡山の福間はどこにいる」と大勢の受講生の中から指名され、技の受け役をしたことがあったと聞いています。 【至 誠】 きわめて誠実なこと。また、その心。まごころを表します。 「至誠」といえば、幕末の偉人 吉田松陰が残した「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり」という言葉が有名ですが、誠の心をもって尽くせば、動かなかった人など今まで誰もいないという意味で、もともとは中国古典、孟子(もうし)の離婁章句(りろうしょうく)の一節です。 なお、吉田松陰と同郷の安部晋三元首相の座右の銘も「至誠」です。 | 犬養健 「光武館」犬養 健 (いぬかい たける/1896年・明治29年-1960年・昭和35年) 政治家で、法務大臣などを務めた。岡山県出身の犬養毅元首相の三男にあたる。 |
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大日本武徳会 柔道教士昭和10年(1935年)5月9日 初代館長 福間豊が、大日本武徳会より『教士』の称号を授与されました。 大日本武徳会の柔道には錬士、教士、範士の称号があり、 福間豊が授与された教士は、 「錬士の称号を受有する事。五段以上たること操行堅実武道に関し相当の識見を有する事。」 という条件となっており、現在よりも五段所有者は少なかったことから名誉ある称号かと思われます。 【大日本武徳会】 戦前に武道の振興を目的として作られた組織で、京都の武徳殿に本部を置き、柔道だけでなく剣道、弓道、空手、合気道などあらゆる武道の部会が設けられました。 柔道においては、武徳会独自の試合審判規程や形が制定されたり、柔道の段位の発行なども行われました。 「東の講道館、西の武徳殿」と評されるほど日本の武道の中心的存在となっていましたが、戦後GHQの指令によって強制的に解散となってしまいました。 | 不遷流柔術 盛武館 「奥伝の位」館祖福間廣太は、田邉又右衛門から直接指導を受け、邑久町福元に不遷流柔術の道場を開設しました。 初代館長福間豊が、瀬戸町に講道館柔道の道場を開くと同時に邑久町にあった不遷流柔術の道場は閉めてしまったため、残念ながら技術は継承されていません。 写真は、2代目館長の福間武男が、不遷流柔術の宗家である盛武館から授かった「奥伝の位」です。 【不遷流柔術】 江戸時代末期に武田物外が創始した柔術流派で、4代目の田邉又右衛門は明治時代に講道館柔道を寝技で苦しめたことで知られています。 | 佐村嘉一郎十段佐村嘉一郎(さむら かいちろう/1880年・明治13年 1964年・昭和39年) 熊本県出身。講道館柔道十段。講道館常任指南役。大日本武徳会柔道範士。 講道館草創期を代表する柔道家である磯貝一(十段)は、不遷流柔術の田辺又右衛門と3度対戦しいずれも引き分けに終わったが、最初の2戦では田辺又右衛門が試合を優位に進め、3度目の勝負では、講道館の中でも特に寝技に長けた佐村嘉一郎と寝技の猛特訓を重ねた結果、見違える程に寝技技術が向上し、磯貝一が優位に試合を進めたという。 |
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